「9拍子」はあまり聞き馴染みがないかもしれませんが、実はクラシックからジャズ、プログレッシブ・ロック、さらには民族音楽の世界まで、非常にドラマチックで独特のうねりを持ったリズムとして存在しています。
9拍子は、一小節の中に九分音符が9回入るリズムを指しますが、多くの場合、単純に「1、2、3…」と9個数えるのではなく、複数の小さなリズムの塊が組み合わさった「複合拍子」として機能します。音楽史においては、バロック時代の舞曲や、19世紀以降のロマン派音楽、そして現代の変拍子を多用する音楽シーンで見ることができます。偶数系のリズムが持つ安定感とは対照的に、どこか波打つような、あるいは円を描いて回転し続けるような独特の浮遊感が最大の特徴です。
この理論的な構成を深掘りすると、9拍子の多くは「3拍子 × 3グループ」という形で作られています。つまり、一小節が「1・2・3、2・2・3、3・2・3」という大きな3つの塊で構成されているのです。これを「8分の9拍子」と呼んだりします。しかし、より複雑なものになると「2+2+2+3」といった不規則な分割(変拍子的アプローチ)もあり、これによって「つまずくような心地よさ」や、予測不能なスリルが生まれます。
この9拍子の魅力を体感するのに最も有名な楽曲は、クラシックであればモーツァルトのピアノソナタや、モリス・ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』の冒頭などに見られます。しかし、リズムの面白さをより鮮烈に感じられるのは、デイヴ・ブルーベック・カルテットの『Blue Rondo à la Turk』でしょう。この曲のメインフレーズは「2+2+2+3」という変則的な9拍子で構成されており、聴き手は翻弄されながらも、その数学的な美しさに引き込まれてしまいます。
9拍子の世界を知ると、音楽はもはや「規則正しい四角形」ではなく、複雑な多角形や螺旋のように自由に形を変えられるものだと気づかされます。特にトルコなどのバルカン半島の民族音楽では、こうした奇数のリズムが日常的に使われており、私たちの心拍数や歩幅とは異なる「未知の鼓動」を感じさせてくれます。
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9拍子
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Mas Que Nada
この曲の歴史は1963年、ブラジルの伝説的なシンガーソングライターであるジョルジ・ベン(現在はジョルジ・ベンジョール)が、自身のデビューアルバムである「Samba Esquema Novo」に収録したのが始まりです。当時のブラジルではボサノヴァが全盛期を迎えていましたが、ジョルジ・ベンはそこにサンバの情熱的なリズムと、当時アメリカから流入していたロックやブルースの要素を融合させました。この「サンバ・ホッキ(サンバ・ロック)」という新しいジャンルの先駆けとなったのが、この曲なのです。
アーティストの情報を語る上で、セルジオ・メンデスとブラジル ’66の存在は欠かせません。ジョルジ・ベンが発表した数年後の1966年、ピアニストのセルジオ・メンデスがアメリカ人女性歌手二人をフロントに立てた編成でこの曲をカバーし、世界的な大ヒットを記録しました。ジョルジ・ベンのオリジナルが持つ素朴で力強いアフロ・ブラジリアンな響きに対し、セルジオ・メンデスは洗練されたジャズのアレンジと、流麗なピアノの旋律を加えました。このカバーによって、ポルトガル語の楽曲としては異例のアメリカ・ビルボード誌での上位ランクインを果たし、ブラジル音楽を世界中に知らしめる決定打となったのです。
音楽理論的な観点で見ると、この曲の最大の特徴は「シンコペーション」と呼ばれる独特のリズム感にあります。これは、本来強調されるべきリズムのタイミングをあえてずらすことで、躍動感やスリルを生み出す手法です。冒頭の「オーリア、イア」というコーラス部分は、聴き手のリズムを心地よく揺さぶり、自然と体が動いてしまうような魔法を持っています。また、コード進行自体は比較的シンプルですが、ピアノやベースが刻むポリリズム(複数の異なるリズムが重なり合うこと)が複雑に絡み合うことで、単調さを感じさせない奥行きのあるサウンドを作り出しています。
この曲にまつわる興味深いトピックとして、タイトルの意味が挙げられます。「Mas Que Nada」は直訳すると「何でもないさ」といったニュアンスになりますが、当時のスラングとしては「とんでもない」や「さあ、どいてくれ」といった、勢いのあるポジティブな感嘆詞として使われていました。また、2006年にはセルジオ・メンデス自身がブラック・アイド・ピーズと共演し、ヒップホップの要素を取り入れたセルフカバーを発表して再び世界中でチャートを賑わせました。時代を超えて愛され、進化し続けるこの曲は、まさにブラジル音楽の魂そのものと言えるでしょう。
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エディット・ピアフ / Edith Piaf
フランスが生んだ不世出の歌姫、エディット・ピアフ。彼女の人生は、まさに「愛の讃歌」そのものでした。1915年、パリの貧しい地区で生まれた彼女は、本名をエディット・ジョヴァンナ・ガシオンといいます。伝説では街灯の下で生まれたとも言われていますが、実際には病院で産声をあげました。幼少期は、曲芸師の父と歌手の母という不安定な家庭環境にあり、祖母が営む娼館で育てられるという過酷な境遇を過ごしました。この時期に大病を患って一時的に視力を失った際、聖女テレーズへの祈りによって奇跡的に回復したというエピソードは、後の彼女の深い信仰心と、何事にも屈しない強靭な精神力の源泉となりました。
彼女のキャリアは、パリの路上から始まります。父親の仕事を手伝いながら歌っていた彼女は、1935年にナイトクラブのオーナーであるルイ・ルプレに見出されました。その小柄な体(わずか147センチメートル)から放たれる圧倒的な声量と存在感に驚いたルプレは、彼女にフランス語で「小さな雀」を意味する「ラ・モーム・ピアフ」という芸名を授けました。これが、世界が知る「エディット・ピアフ」の誕生です。しかし、順風満帆に見えた矢先に恩人であるルプレが暗殺されるという悲劇に見舞われ、彼女自身も疑いの目を向けられるという窮地に立たされます。このどん底から彼女を救い出したのが、作詞家のレイモン・アッソーでした。彼はピアフに礼儀作法や歌唱の技術を徹底的に叩き込み、彼女を単なる「路上の歌手」から「フランスを代表するシャンソン歌手」へと脱皮させたのです。
ピアフが活躍した時代は、第二次世界大戦という激動の渦中にありました。ナチス・ドイツ占領下のパリにおいても、彼女は歌い続けました。驚くべきことに、彼女は捕虜収容所での慰問活動を利用して、偽造の身分証明書を作成するための写真を撮影し、多くのフランス人捕虜の脱走を手助けしたという勇敢な一面も持っています。彼女の歌声は、戦火に傷ついた人々の心に寄り添う希望の光でした。当時の音楽業界では、蓄音機の普及と共に、歌手の感情をダイレクトに伝える「シャンソン・レアリスト(現実主義的シャンソン)」というスタイルが確立されていきました。ピアフはまさにその頂点に立ち、個人的な悲しみや愛の喜びを、まるで一本の映画を観ているかのような情景描写と共に歌い上げ、大衆の心を掴んで離しませんでした。
彼女の代表作を語る上で欠かせないのが、1945年の『バラ色の人生(La Vie en rose)』です。この曲はピアフ自身が作詞を手掛けており、恋をすることで世界が輝いて見える様子を美しく描いています。音楽的には、流れるようなワルツののリズムと、彼女独特の「ヴィブラート」と呼ばれる声の震わせ方が特徴的です。また、不滅の名曲『愛の讃歌(Hymne à l’amour)』は、彼女が生涯で最も深く愛したと言われるプロボクサー、マルセル・セルダンへの想いから生まれました。1949年、彼が飛行機事故で急逝したという知らせを聞いた直後、彼女は絶望の淵にありながらもステージに立ち、この曲を歌い上げたと伝えられています。「愛のためなら何でもできる」という情熱的な歌詞は、彼女の人生そのものを象徴しているかのようです。
晩年のピアフは、重なる交通事故や病魔、そして薬物依存に苦しみましたが、その歌声の輝きは衰えるどころか、凄みを増していきました。1960年に発表された『水に流して(Non, je ne regrette rien)』は、まさに彼女の人生の総括と言える名曲です。「私は何も後悔しない」という力強い宣言は、数々の悲劇やスキャンダルを乗り越えてきた彼女にしか歌えない説得力を持っていました。彼女はシャルル・アズナヴールやイヴ・モンタンといった後の大スターたちを見出し、育成したことでも知られており、フランス音楽界における「母」のような存在でもありました。1963年、47歳という若さでこの世を去った際、パリの街には数十万人もの人々が葬列に詰めかけ、その死を悼みました。彼女が遺した音楽は、今もなお世界中で愛され続け、困難に立ち向かう人々に「愛し、歌い続ける勇気」を与え続けています。
音楽史を紐解くと、人を救い豊かにする名曲を遺した作曲家たちが、実は極貧や孤独、病といった不遇な環境に身を置いていたというケースが少なくありません。この切ないパラドックスが生じる背景には、いくつかの心理的・構造的な理由が深く関わっています。
まず、現実世界における「欠乏」こそが、表現の必然性を生むという側面があります。生活が満たされている時、人はその幸福を享受することに没頭しますが、現実が残酷で苦しい時、音楽は一種の「代償行為」となります。彼らは手が届かない理想郷を音の中に構築し、完璧な美しさや安らぎをそこに結晶化させようとするのです。また、言葉にできない絶望や怒りを音楽へと昇華(カタルシス)させる創作活動は、彼らにとって文字通りの「命綱」でもありました。
次に、追い詰められた状況がもたらす「ハングリー精神」と異様なまでの集中力が挙げられます。皮肉なことに、豊かさは選択肢を増やして人を散漫にさせますが、経済的に困窮した芸術家にとって、作曲は生き残るための唯一の武器であり「背水の陣」です。その切実さは、聴き手の魂を揺さぶる強烈なエネルギーとして作品に宿ります。さらに、華やかな社交界から隔絶されているがゆえにノイズが遮断され、自身の内面世界と深く向き合わざるを得なかったことが、結果として純度の高い名作を生む土壌となりました。
また、聴き手との共感における「深さ」の問題も無視できません。私たちが名曲に深く感動するのは、そこに自分自身の弱さや悲しみが投影されているからです。満たされた人が書いた喜びの歌が時に表面的に響く一方で、どん底を知る者が綴った音には、痛みを知る者だけが持つ「慈しみ」が宿ります。その深い共鳴こそが、時代を超えて聴き手の心を豊かにする正体と言えるでしょう。
もちろん、これには歴史的なフィルター、いわゆる「生存者バイアス」も影響しています。メンデルスゾーンのように恵まれた環境で傑作を遺した者も存在しますが、私たちは「苦悩の末に生まれた美」という劇的な物語を好む傾向があります。「これほどの不幸の中で、なぜこれほど美しい曲が生まれたのか」というギャップが、作品をより神格化させている側面も否定できません。
「芸術は苦しみの中から生まれる」という言葉は残酷な響きを持っていますが、表現者が自らの身を削り、命を燃やして紡ぎ出した結晶を、私たちは「心の豊かさ」として受け取っているのかもしれません。
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アストラッド・ジルベルト / Astrud Gilberto
ボサノヴァの女王、アストラッド・ジルベルト。彼女の人生は、音楽史における最も幸福な偶然の一つから始まりました。ブラジルのバイーア州でブラジル人の母とドイツ人の父の間に生まれた彼女は、言語的なセンスと音楽的な感性が交差する環境で育ちます。後に「ボサノヴァの父」と呼ばれるジョアン・ジルベルトと結婚した彼女は、音楽を愛する一人の主婦として静かに暮らしていました。しかし、1963年のニューヨークで、その運命は劇的な変貌を遂げます。夫のジョアンとサックス奏者のスタン・ゲッツがアルバム『ゲッツ/ジルベルト』を制作していた際、英語で歌えるシンガーが必要になったのです。プロの歌手としての経験がなかったアストラッドが、控えめに、しかし凛とした声でマイクの前に立ったその瞬間、世界を虜にする魔法が生まれました。
彼女が歌った「イパネマの娘」は、当時の音楽業界に吹き荒れていた情熱的なジャズやロックとは対極にあるものでした。彼女の歌声は、感情を過剰に乗せない「クール」なスタイルが特徴で、まるで耳元で囁くような親密さを感じさせます。これは、ヴィブラート(音を細かく震わせる技法)を抑え、真っ直ぐに音を置くような歌い方であり、ブラジルの灼熱の太陽というよりは、夕暮れ時の涼しい海風のような心地よさを聴き手に与えました。この曲は世界的な大ヒットを記録し、グラミー賞を受賞。ブラジルのローカルな音楽であったボサノヴァを、一気にグローバルなスタンダードへと押し上げる決定打となったのです。
アストラッドの成功の背景には、1960年代という時代の空気が大きく関わっています。当時のアメリカは激動の政治情勢の中にありましたが、人々は洗練された都会的な癒やしを求めていました。彼女の声が持つ、どこかアンニュイで、かつ知的でモダンな雰囲気は、当時のライフスタイルに完璧にフィットしたのです。しかし、その華々しい成功の裏で、彼女は「ジョアンの妻」や「偶然のシンガー」というレッテルと戦い続けなければなりませんでした。彼女はその後、夫と別離し、自立した女性アーティストとしての道を歩み始めます。自身のアルバムでは作詞・作曲にも携わり、単なるシンガーにとどまらないクリエイティビティを発揮しました。
代表作を挙げるなら、やはりソロデビュー作である『The Astrud Gilberto Album』は欠かせません。この作品では、彼女の透明感のある歌声が、名匠アントニオ・カルロス・ジョビンのアレンジと完璧に調和しています。また、後に彼女は日本語で歌を披露したり、ディスコサウンドに挑戦したりと、非常に柔軟で実験的な姿勢も見せました。彼女が音楽業界に遺した最大の影響は、技術的な上手さだけが歌の価値ではないと証明したことでしょう。完璧にコントロールされた「素朴さ」こそが、人の心に深く浸透することを、彼女はその生涯を通じて教えてくれました。2023年にこの世を去るまで、彼女が守り続けたその静かな情熱は、今も世界中のカフェやリビングルームで、人々の心を穏やかに癒やし続けています。